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つぐ太のブログ

Your sugar. Yes, please.

SACOを考える

SACO

SACOは沖縄県の米軍基地について協議する機関として「沖縄に関する特別行動委員会(SACO=Special Action Committee on Okinawa)」として日米間で1995年11月に設置されたものです。

 

 

SACO設置以前の沖縄

基地被害や経済発展を阻害してきた米軍基地

 広大な面積を占める米軍基地は、県民生活や自然環境に様々な影響を及ぼしており、地域の振興開発や県土の均衡ある発展を図る上で大きな制約になっています。

 1994年に沖縄県は、県民の負担軽減を図るための「重要三事案」を日米両政府に求めました。

三事案は

那覇港湾施設の返還

②読谷補助飛行場におけるパラシュート降下訓練の廃止及び同施設の返還

③県道104号線越え実弾砲撃演習の廃止です。

 

これらは1996年12月ののSACO最終報告で返還されることや廃止が決められました。しかし、SACOによって返還が実現したものもありますが、条件がつけられているために実現していないものが多数です。

 強制土地使用への怒り

 県民の怒りの一つには米軍基地への土地提供による強制土地使用がありました。

 1972年に沖縄は本土に復帰し、米軍は土地を強制使用する法的根拠を失いました。日本政府は米軍に基地を提供するために地主と賃貸契約を結びました。地主のなかで、米軍への土地提供に反対する人たちは「反戦地主会」を結成して契約を拒否しました。

 そこで日本政府は「公用地暫定使用法」を制定し、復帰前に米軍用地として使用されていた土地は、地主の同意がなくても復帰後5年間は継続使用できることにしました。「公用地暫定使用法」の期限切れとなる1977年に、日本政府は新たに「地籍明確化法」を制定し、地籍・土地の境界が不明な土地で、位置・境界が確定するまでの間は、米軍・自衛隊に提供する必要のある土地は、国は使用を継続できることにし、補則で「公用地暫定使用法」の強制使用期間を5年から10年に改めました。

 その後は、公用地暫定使用法の期限が切れた1982年と1987年の2回に渡って「米軍用地特別措置法(1952年制定)」を適用し、強制使用期限を延長してきました。特措法は知事が契約を拒否する地主に変わり代理署名を行うことにより使用ができるものでした。

 政府は、1996年4月および1997年年5月に新たな使用権原を取得する必要がある駐留軍用地について、特措法に基づく使用裁決の手続きに着手し、代理署名を沖縄県知事に求めました。当時の太田昌秀知事は、代理署名を拒否しました。その背景には1995年に起きた少女暴行事件への県民の怒りがあり、米軍への県民の不満が噴き出だし、世論となって表れていたことがあります。

  太田昌秀沖縄県知事の〝土地の強制使用の代理署名拒否〟の判断に対して政府は、1995年9月、地方自治法に基づき、駐留軍用地特措法の規定により義務付けられた本件公告縦覧の手続きに応じるよう沖縄県に勧告し、同年11月には「命令」を行いますが、県民に過重な負担を強いている米軍基地の現状と平和な沖縄を求める立場から、沖縄県は、これを拒否しました。

 その翌月の10月には、少女暴行事件に抗議して県議会などを先頭に超党派による「米軍人による暴行事件を糾弾し、地位協定の見直しを要求する沖縄県民総決起大会」が宜野湾市の海浜公園で開催され、8万5000人(宮古八重山でも同時開催され、それぞれ3000人が結集)が参加し県民の怒りが示され、日米両政府にとっては日米安保政策を揺るがす事態となりました。しかし、当時の自社さ連立政権(自民党日本社会党新党さきがけ)の村山富市首相は、米軍への土地提供を続けるために同年の12月、沖縄県に対しての訴訟を福岡高等裁判所那覇支部に提訴(職務執行命令訴訟)し、「知事代理署名拒否裁判」が始まりました。この裁判の間に読谷村の楚辺通信所(現在は恩納村喜瀬武原へ移設)などのいくつかの施設の使用期限が切れ、土地の不法占拠状態になりました。

 1996年3月に、この代理署名拒否裁判の判決が下り、県は敗訴。上告しますが同年8月に最高裁大法廷はこれを棄却し、敗訴が確定しました。

 こうしたなかで沖縄県では米軍基地の是非について県民の議論がかつてなく高まり、翌月の9月には米軍基地の整理・縮小と日米地位協定の見直しについて賛否を問う県民投票が行われました。県民投票は都道府県レベルでは全国初の住民投票であり、沖縄の民意がどう表れるのか、全国から注目されました。

  1996年9月8日に行われた基地の整理縮小と日米地位協定の是非を問う県民投票の最終開票結果は、有権者90万9,832人で投票率5953%、投票総数54万1,638票のうち有効投票は52万8,770票でした。有効投票のうち、賛成票48万2,538票、反対は4万6,232票で、基地整理・縮小と日米地位協定の見直しに賛成が8909%になりました。基地を縮小せよとのオール沖縄の民意はこの当時から示されていました。

 しかし、大田知事は県民投票直後の9月13日に公告縦覧に応じ、不法占拠状態になっていた土地は引き続き米軍基地として強制使用が継続されることになりました。

少女暴行事件への怒り

 一方、日米両政府は、1995年の少女暴行事件の発生後、基地反対運動の高まりを受けて、同年11月にSACO(沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会)を設置します。1996年1月には村山富市首相に代わり、橋本龍太郎首相が誕生。そして4月にはSACO中間報告が出され、この時点で「普天間基地の移設条件付き返還」をするとして、◎5年後から7年後までの全面返還を目指すこと、◎移設を実施するためには十分な代替施設を用意すること、◎代替施設として海上ヘリポートへの移設を検討すること、といったことが明記されました。普天間飛行場の移設先として海外や県外も取りざたされましたが、沖縄本島で次つぎと候補地が報道されました。嘉手納弾薬庫地区、キャンプ・ハンセン、キャンプ・シュワブ、嘉手納基地、浦添沖、中城湾などの名前もあがりました。SACO最終報告では、「沖縄本島東岸沖」と曖昧にされながらもキャンプ・シュワブ沖が有力な候補地とされます。9712月の新基地建設の是非を問う名護市住民投票では、移設反対が過半数を占めました。

 

SACO(沖縄における施設及び区域に関する特別行動委員会)は、これまでの基地の事件事故、土地の強制使用といった基地の重圧への県民の不満の高まりがある背景のもとで、1995年の少女暴行事件をきっかけに「もう我慢をしない」との県民の基地反対の盛り上がりを受けて、日米両政府が沖縄に基地を置き続けるために負担軽減策を講じるという目的で設置されたものでした。

 少女暴行事件とはどういったものだったでしょうか。1995年9月、沖縄本島北部において、在沖海兵隊員3人が12歳の少女を拉致した上、暴行におよんだもので、あまりの非道さに県民の怒りを呼びました。さらに県民の怒りを呼んだのは、日本側は起訴までの二十六日間、容疑者の逮捕も拘禁もできなかったことです。米兵等が公務外で犯罪を犯した場合(日本側に第一次裁判権がある)でも、米兵等が米軍基地内にいるときは、その身体は、起訴されるまで日本側に移されないのです。それは、地位協定17条5項(c)にそう定められているからです。このことへの怒りから8万5000人の県民集会が開かれましたが、このとき日米両政府は、地位協定には手をつけず、▽殺人・暴行事件では、米国は起訴前の容疑者の身柄引き渡しに「好意的配慮」を払う▽「その他の特定の場合」、米国は日本の身柄引き渡し要求を「十分に考慮」するとの「運用改善」の合意で幕引きをはかりました。身柄引き渡しはあくまでも米側の判断に委ねられます。日米両政府が地位協定の改定など抜本的な防止の措置を取らないがゆえに米軍人の事件は現在にいたるまで、繰り返されています。

 

県が求めた「重要事項三案」はどうなったか 

 

 1994年、沖縄県が日米両政府に求め、SACO最終報告にも返還や廃止が盛り込まれた「重要三事案」は、①那覇港湾施設の返還、②読谷補助飛行場におけるパラシュート降下訓練の廃止及び同施設の返還、③県道104号線越え実弾砲撃演習の廃止です。

104号線超え実弾砲撃演習の廃止

 その一つの県道104号線越え実弾砲撃演習について考えてみます。演習は、恩納村安冨祖から金武町金武までを結ぶ全長8・1㌖で、そのうち約3・7㌖がキャンプ・ハンセン内に位置している県道104号線を超えて実弾砲撃が行われる訓練で、復帰後の1973年から1997年までの24年間にわたって行われました。実弾砲撃演習が行われると、県民の生活道路である県道104号線が封鎖され、迂回を強いられました。訓練区域周辺には住宅、学校、病院も存在しました。訓練区域は東西約13㌖、南北約4・2㌖しかないにもかかわらず、訓練に使用された155ミリりゅう弾砲の射程距離は30㌖と、訓練区域を大きく超えるもので、住民生活に危険を及ぼしかねないものでした。着弾地からの騒音や振動等、住民生活への悪影響は耐え難いものでした。演習場内ではたびたび山林火災が発生し、貴重な自然の破壊や環境汚染をもたらしました。そのため沖縄県は米軍や当時の那覇防衛施設局に対して演習の中止及び廃止を求めてきました。県民が金武町に駈けつけて行った抗議行動も長く続きました。

 SACO最終報告は、1997年度中に県道104号線越え実弾砲撃演習が日本本土の演習場に移転された後、同演習を取りやめるとしました。演習の負担はなくなったのではなく、矢臼別演習場(北海道)、王城寺原演習場(宮城県)、東富士演習場(静岡県)、北富士演習場(山梨県)、日出生台演習場(大分県)と全国へと広がりました。

 県道104号線超え実弾砲撃演習の移転演習は年間で最大4回、合計最大35日以内とされました。1997年3月の180回目の実施を最後に沖縄では事実上廃止されることになりました。しかし、沖縄から実弾演習を行う部隊がいなくなったわけではありません。沖縄にいる海兵隊が日本政府が拠出する移転費用によって、ハンセンなどの米軍基地から移動し、那覇から日本政府がチャーターした船舶にりゅうだん砲を積み込んで日本各地の演習場に向かうのです。移動前には隊員がルート偵察も行い、物流計画をもとに、いかなる天候や状況のもとでも隊員や、装備を確実に時間通りに目的地に届け、砲兵火力を提供するという、まさに沖縄から各地への移動そのものが訓練なのです。負担は軽減されていません。

 2011年に日本共産党笠井亮衆議院議員の求めに応じて防衛省が提出した資料では、日本政府が拠出する県道104号線超え実弾砲撃演習移転訓練日は、1997年から2009年までに135億円に上っています。2009年度だけで見ると10億円超です。

 今年の3月2日には大分県の日出生台で3年ぶり10回目となる演習が行われます。さらに今年から来年にかけて演習は4回計画されており第1回=王城寺原演習場・5月下旬~6月下旬。第2回=東富士演習場・9月上旬~10月上旬。第3回=矢臼別演習場・11月中旬~12月中旬。第4回=日出生台演習場・16年2月上旬~3月上旬となっています。

 海兵隊は、ハンセンの手狭な演習場から使い勝手の良い演習場を求め、全国へ訓練を拡大しています。移転地では、着弾地から砲撃が数キロも外れて着弾するなど国民へ恐怖を与えています。負担は軽減されるどころか全国へと拡散しています。

パラシュート降下訓練の廃止及び同施設の返還

  沖縄県が日米両政府に求めた負担軽減策としての重要三事案の、「読谷補助飛行場(読谷村)におけるパラシュート降下訓練の廃止及び同施設の返還」は、どういうものだったでしょう。

 読谷村では読谷補助飛行場を囲む形で住宅地域が広がり、施設周辺の農耕地や住宅地域にパラシュートの訓練兵が降下する等の事故が発生してきました。1950年には、燃料タンクを落下させ少女が圧死、1965年にもトレーラーを吊り下げ、落下させ再び少女が圧死しました。耐え難い悲惨な事故であり、訓練さえなければ起こりえない事故が発生してきたのです。そのために県や、読谷村は同飛行場におけるパラシュート降下訓練の廃止と同施設の返還を強く要請してきました。

 1996年12月のSACO最終報告では、パラシュート降下訓練が伊江島補助飛行場に移転され、楚辺通信所が移転された後に返還することが合意され、1999年には政府からの予算補助を条件に伊江村政が受け入れを表明します。以降、パラシュート降下訓練では伊江島でのみ行われることになりました。

 沖縄県も求めた負担軽減は、実際には「負担移転」でした。同じ日本国民として住民が住む、読谷村から伊江村に負担を移したから軽減されたということがあるでしょうか。程度の問題ではなく「命」の問題です。

 伊江島では、1989年には同じようにハリアーパッドが受け入れられ建設されます。国頭村安波にハリアーパッドの建設が持ち上がり、住民の反対で断念させ、伊江村が引き受けを表明したことによって建設されたおのです。

 復帰前には伊江島補助飛行場は射爆撃場として使われてきました。「負担軽減」や予算獲得の名のもとに、悲惨な沖縄戦を経験した伊江島は、今も、一身にその負担を負い続けています。

 読谷村補助飛行場で行われていたパラシュート降下訓練は、補助飛行場が返還され、伊江島に移転されましたが、2007年には、うるま市津堅島訓練場水域内で、空軍及び陸軍によるパラシュート降下訓練が実施され、漁民や県民に大きな不安を与えました。また同年に嘉手納基地でのパラシュート降下訓練も行っています。

 伊江島では日常的にパラシュート降下訓練が行われ、着地点から大きく逸れ、フェンス外に出て民間地に米兵が降下することがたびたび繰り返されています。 

 痛みを同じ身体のどこに移しても痛みは同じであり、それにとどまらず痛みが拡散している現実があります。

 沖縄県が日米両政府に負担軽減を求めSACOにも盛り込まれた重要3事案の最後のひとつの那覇軍港は、これまで紹介した2事案と異なり、未だに那覇港に存り続けます。ベトナム戦争時など往時のような使用頻度ではなく、遊休化に近い形となっているにも関わらず、米軍が中心となった海外での軍事演習や、県道104号越え実弾演習が他県で行われるたびに、船舶に載せる車両や物資を集結させ、軍事港としての既得権益を守るために手放していないのです。そして那覇軍港が返還されない理由は、移設条件が付いているからです。