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つぐ太のブログ

Your sugar. Yes, please.

ブルーインパルス見てきた

航空自衛隊那覇基地の美ら島エアーフェスタ2016

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 11日に航空自衛隊那覇基地の美ら島エアーフェスタを見てきた。

 先日に陸自祭にも行ったけど、人手が違った。やはり自衛隊を見たいというよりもブルーインパルスの航空ショーを見たいという興味なんだろうね。たくさんの人が来てたよ。高速なジェット戦闘機は旋回してくるのに時間かかるだろうし、民間機との兼ね合いもあるだろうから、一度展示飛行して次の飛行までかなり時間があいて、正直地味めな飛行だったのかな?初めて見るのでよくわからないんですが、とくに歓声が湧くこともなく、長い待ち時間に疲れ、飛んできても「ふーん」という感じの空気がながれ、だんだんと人が少なくなっていく。

 しかし、パイロットの自衛官はスマートでかっこいいね。ブルーインパルスが出て行く前の点検なども一つの見せ場になっているようで、みんなシャッターを切っていた。これだけ安全に配慮しているんだよというアピールなんだろうね。

これまでにも事故を繰り返してきたブルーインパルス

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 1982年11月14日に行われた浜松基地航空祭での展示飛行において「下向き空中開花」という演技を行っていた時、4番機の引き起こしが間に合わず[67]、会場近くの駐車場に墜落するという事故が発生した[68]。これはブルーインパルス史上では初めてとなる展示飛行中の事故であり[67]、墜落機のパイロットは殉職、地上の民間人にも負傷者が出た。(Wikipedia

  その他練習中などにも墜落事故で機体も人命も失う事故を繰り返してきている。

 

活動の危機を何度も迎えたが、なぜ続いているのか

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 ブルーインパルスの原点は戦前の日本軍時代に遡る。

1916年に開隊された横須賀海軍航空隊は、当初の任務は教育や飛行練成が主であった[7]が、飛行隊が各地に開隊される頃からは、戦技研究や航空機の実用試験を主な任務として行うようになっていた[7]。海軍では、一般からの献金によって製造された戦闘機爆撃機を「報国号」と称していた[7]が、1932年ごろから献納式典の際に、民衆の前で曲技飛行(アクロバット飛行)を行うようになった[7]。これが日本におけるアクロバット飛行の始まりで[7]、当時は「編隊特殊飛行」と称していた[8]。この編隊特殊飛行を考えたのは、当時海軍の戦闘機分隊長だった小林淑人大尉で[7]、小林が率いる編隊特殊飛行チームは「三羽烏」「空中サーカス」と新聞で持てはやされた[9]

一方、1931年に発生した柳条湖事件を機として満州(現在の中国東北部)を制圧した関東軍に当時の日本社会は高揚し[9]、「報国号」の献納数も増えることになった[9]。ちょうど1933年源田實が戦闘機分隊に配属され[9]、編隊特殊飛行チームを受け継いだ時期と重なったため[9]、曲技飛行の機会も増加し、使用する戦闘機の数も9機にまで増加した[9]。これらの編隊特殊飛行は、専ら九〇式艦上戦闘機を使用して行なわれた[10]。課目には「3機編隊で急降下し、引き起こし中に1機だけ背面飛行となり、そのまま急上昇」というものもあった[11]が、列機はほとんど姿勢を崩さなかったという[11]

こうして、編隊特殊飛行チームは「源田サーカス」という通称が定着していった[12]が、戦争の激化と共に編隊特殊飛行は行なわれなくなった。(Wikipedia

 戦意高揚の一環として取り組まれていたことが分かるね。

 さらにWikipediaを読んで行くと、戦後、航空自衛隊は1955年にアメリカからジェット戦闘機のF-86Fセイバーの供与を受けることになり、自衛隊パイロットがアメリカに研修に行き、米軍のアクロバット飛行チームの飛行を見て帰ってきて、帰国後に非正式にアクロバット飛行を行うようになる。やがて飛行隊長の知るところになるけれども、この飛行隊長は航空団の上層部にかけあって、1958年秋にお行こなわれる浜松基地開庁祈念式典のアトラクションとしてアクロバット飛行の公開を行うことが認められ、展示飛行の実績を重ねていく。「基地上空の曲技飛行は規則違反」「国家公務員が曲技ショーをやる必要はない」などの声もあったようだけど、1959年7月に航空幕僚長が後退すると一気にゴーサインが出る。それはかつての日本軍のもとで空中サーカスを行った源田氏が航空幕僚長になったその人だったからだ。経験的に源田氏はアクロバット飛行の展示が自衛隊への国民の支持を広げることに役に立つことを知っていた。源田氏は政界入りし、オリンピックの開会式でブルーインパルスに五輪を描かせることを根回しし、実現します。

 ブルーインパルスは、2000年7月4日には金華山沖での訓練を終え帰還する途中5番機、6番機が墜落、3人が殉職した。1991年の同月同日にも同じような事故を起こしているにもかかわらずである。墜落地点は女川原発に近い場所で女川原発の周囲の飛行禁止区域をかすめて飛んでいたこともわかっている。

 何度も事故を起こしながらも少し自粛した後にはまた復活しきたブルーインパルス。今日まで続いているのは、自衛隊のイメージアップの役割に負うところが大きい。やめられないのだ。

 その自衛隊は今、日本軍として復活を遂げつつあるのではないか、それは国民が意識しているか、していないかということとは別のところで確実に進んでいるような気がする。