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つぐ太のブログ

Your sugar. Yes, please.

沖縄民報が3000号。沖縄民報とは?を語ってもらいました。

Works

県民のたたかいの歴史とともに あけぼの印刷社長 古謝将嘉さん

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 沖縄民報の12月10日付け号に掲載した沖縄民報3000号の特集記事。割りと反応あり、激励を多くいただきました。一般の読者からの激励が多く、まあ近い人ほど知らんぷりですねww。まあ人望のなさとうわけで、不徳の致すところです。

古謝将義さんのお話し

 沖縄民報は、沖縄人民党の機関紙「人民」として1962年1月23日にスタート。沖縄の施政権返還後の1973年10月31日に沖縄人民党日本共産党への合流したことに伴って、1974年2月22日の620号より、紙上で募集した題号の「沖縄民報」へと改題しました。1962年3月19日に第3種郵便物認可を受けてから今号で3000号を迎えました。ですから実際には3000号を上回っています。

 「人民」の創刊から数えて5代目の編集長を務めた現あけぼの印刷社長の古謝将嘉さんにお話を聞きました。

古謝将嘉 機関紙「人民」の発行は、言論の自由を踏みにじる米軍の圧政を打ち破った人民党の成果、県民の成果と呼べる出来事でした。当時、新聞や書物の発行は琉球政府の許可制で、「人民」の発行許可申請に対して

当時の太田主席は「許可してもさしつかえないと思います」と米民政府に伺いをたてますが、ヒッチ民政官は不許可を勧告し、太田主席は自らの権限を投げ捨て違法な不許可の回答をします。これにたいし人民党は法廷でたたかい、勝利し、「行政処分を取り消す」との判決を得ます。他の団体にも同様に出版が米軍政府によって阻まれることが相次ぎ、沖縄の言論出版の自由が保証されていない状態のなかで、この勝利は県民の言論の自由を勝ち取るたたかいの突破口となり1965年2月の出版の許可制の布令を廃止させる力となりました。

 しかし、その後は民間の印刷所で印刷をしても3号ほど刷ると軍政府から圧力がかかり、印刷を断られてしまいます。「人民」を印刷するための自前の印刷所を持たなければだめだということで多くの県民に支えられて創立したのが「人民印刷所」、今のあけぼの印刷です。

 「人民」は、商業新聞で学者などが誤った路線の論陣をはっても、対抗して反論し、それが県民の運動をつくっていく力を発揮しました。それは「人民」が知識層にも支えられていたからです。週刊紙である機関紙が民間の日刊紙と対等に論戦を交わすという特異な存在が「人民」でした。また、「人民」は高江の住民を使った、ベトナム村と呼ばれた米軍の訓練を白日のもとにさらしましたが、それも基地労働者との結びつきのなかで得た情報をもとにしたものです。商業新聞が軍政府批判をできないもとで、基地問題などでも多くのスクープをしました。民主主義を体現する武器となったのが「人民」です。

 復帰後、人民党が日本共産党に合流し、機関紙は「赤旗」になるもとで、「人民」は「沖縄民報」へと改題し、革新・民主の政治の流れを伝える新聞として継続します。その県民の武器という役割は今も変わりません。私自身も民報の編集長としてその流れの継承を意識して編集活動にあたりました。「人民」は初代編集長に仲松庸全さん、2代目編集長に上原清治さん、そして「人民」の3代目編集長と「沖縄民報」の初代編集長をまたいで務めた佐次田勉さん、4代目編集長の田仲康榮さん、そして5代目編集長の私、古謝将嘉。6代目の宮城義弘さん、現在の7代目の安里嗣頼編集長と続き、オール沖縄のたたかいの激動の時代真っ只中に3000号を迎えます。歴史を引き継ぎ、より県民に読まれる民報に成長するために編集体制の強化と発展を切に期待しています。